| 本文テキスト | 第1節 縄文後期
東北地方北部の縄文後期の土器は,弘前市十腰内(2)遺跡の発掘調査資料を標式として設定された十腰内Ⅰ群からⅥ群土器の6階梯(今井・磯崎,1968)に加え,十腰内Ⅰ群に先行する土器の存在も2階梯ほど確認されている。この十腰内Ⅰ群からⅥ群土器は,やがて十腰内Ⅰ式からⅥ式土器などと呼ばれるようになり,今日までに細分化や見直しなどが行われている。
それまで縄文中期中葉には,東北地方北部から北海道南西部に円筒上層式,東北地方中南部に大木式という二つの土器分布圏が形成されていたが,中期後葉になると円筒上層式は衰退し,大木式の影響を受けた土器の分布圏に覆われることになる。しかし,後期前葉になると地域色の強い,いわゆる十腰内Ⅰ式土器が成立し,東北地方北部から北海道南西部に分布域が狭まっていく。中葉になると次第に地域色が薄れ,十腰内Ⅱ群以降に関東地方や北海道道央部などの要素を取込んだ土器が作られるようになり,広域的な分布圏が形成される。中葉から後葉の十腰内Ⅳ~Ⅴ群では,土器に瘤状の小突起を貼りつけた貼瘤手法が盛行し,末葉の十腰内Ⅵ群にかけて貼瘤が刺突や刻目へと変化する。また十腰内Ⅵ群の頃には器形や文様など,晩期の大洞B1式に近似するようになり,いわゆる亀ヶ岡式の母体となった。縄文後期の土器の年代は,放射性炭素年代測定(AMS法)結果から4,400~3,200calBP頃の,およそ1,200年間にわたり継続していたと考えられる。
(1)後期1期(後期初頭古段階)(図1)
縄文中期末葉の大木10式併行に後続する土器で,上村式(図1-12)から韮窪式(同3)へと変化する考え(本間,1987・88)や,牛ヶ沢(3)式(成田,1989)として包括的に捉えた見解がある。八戸市韮窪遺跡,同市牛ヶ沢(3)遺跡などから良好な資料が出土している。深鉢が主体的で,底面に中期末葉に多くみられた網代痕を有するものが目立つ。また,この頃から頸部に橋状把手を有する再葬用の大型壺が登場し,後期3期まで継続する。胴部には,大木10式併行の文様を受継ぎ,磨消縄文手法によるコの字やJ字状の文様を有する。このほか,撚糸圧痕による縄線文や紐状の粘土を貼りつけた隆線文を多用する特徴も認められる。また,動物や弓矢を描いた狩猟文土器もこの頃から増える。
(2)後期2期(後期初頭新段階)(図2)
この時期の土器は,胴部に三角形区画文を基調とする一群(図2-1~5)と方形区画文を基調とする一群(同6~11)が認められ,段階的な変遷あるいは二系統の土器が併存するものとして考えられている。
三角形区画文を基調とする土器は,弥栄平(2)式(成田,1989)や蛍沢1・2群(葛西,1979a・2002)に相当し,六ヶ所村弥栄平(2)遺跡や八戸市沢堀込遺跡,青森市蛍沢遺跡などで良好な資料が出土している。器種は深鉢に加え,壺が多くみられるようになる。壺の中には焼成前に口頸部や底部付近を切断し,上下を組合せた切断壺も目立つようになり,後期3期まで続く。文様は,胴部に三角形の区画内に渦巻文を施すものや区画の内外に磨消縄文手法を用いるものなどがみられる。
方形区画文を基調とする土器は,沖附(2)式(成田,1989)や蛍沢3群(葛西,1979a・2002)に相当し,六ヶ所村沖附(2)遺跡第1・4号竪穴住居跡,八戸市田面木平(1)遺跡第34号竪穴住居跡,青森市小牧野遺跡第1号集中ブロックで良好な一括資料がみられるほか,蛍沢遺跡でも数多くの資料が出土している。深鉢のほか鉢・浅鉢・壺がみられ,口縁部が肥厚するものや折返されるものが多い。胴部には方形の区画内に幅広のコの字状文や渦巻文が施され,磨消縄文手法を用いるものが多い。
これらの土器は,三角形区画文から方形区画文へと変遷する編年案(蛍沢1・2群→蛍沢3群)や,逆に方形区画文が三角形区画文に先行するという考え方(沖附(2)式→弥栄平(2)式),あるいは両者が遺跡差や地域的な偏りも含めて併存するとして蛍沢式(本間,1987)や馬立式(鈴木,1998c)が設定されるなど,意見が分かれている。
また,三角形区画文と方形区画文を包括した土器(馬立式)に後続するものとして薬師前式(鈴木,2001),一方では方形区画文を特徴とする土器(蛍沢3群・沖附(2)式)から直接変遷するものとして小牧野3期(児玉,1999)が設定されている(同12~17)。小牧野遺跡の第1号集中ブロックでは,後期3期の十腰内Ⅰ式までの土器の変遷を層位的に追うことができ,同遺跡第46号土坑でも良好な一括資料が確認されている。磨消縄文手法や主要文様の構図を前段階から受継ぐものの,渦巻文やS字状文の沈線間の幅が狭くなり,後期3期第1段階の頃には縄文部と無文部が反転する文様へと変化する。
(3)後期3期(後期前葉「十腰内Ⅰ群」併行)(図3)
この時期については,おおむね3段階に区分される。
第1段階の土器(図3-1~9)は,十腰内Ⅰ式の古い段階(葛西,1979b/成田,1989)として考えられており,十腰内Ⅰa式などと称される。北海道南西部から東北地方北部にかけて分布し,県内では青森市稲山(1)遺跡・小牧野遺跡,六ヶ所村大石平(1)遺跡・上尾駮(2)遺跡など数多くの遺跡からまとまった資料が出土している。また,六ヶ所村鷹架遺跡第13号ピット,小牧野遺跡第37号土坑,稲山(1)遺跡第232・502・751号土坑などで良好な一括資料がみられる。器種は,深鉢・浅鉢・壺がみられ,後期2期と比べ土器の厚さが薄くなり,器面を丁寧に調整するものが多くなる。文様は2本の沈線の両端を繫いでC字状やS字状などの文様を組合せた渦巻状の入組文が特徴的で,深鉢では上下の文様帯の幅が広いため,この入組文が複数段配置されるものが多い。浅鉢や壺には3本組沈線で入組文を施すものが多く,この手法が次の段階の深鉢にも多用される。また,この時期に前後して深鉢などに網目文が施されるが,津軽地方では後期2期から撚糸圧痕手法が用いられ,沈線手法による網目文が次の第2段階まで継続する。一方,南部地方では絡条体による網目文が第2段階まで引継がれるなど,地域的な違いもみられる。
第2段階の土器(同10~22)は,十腰内Ⅰ式の新しい段階(葛西,1979b/成田,1989)として考えられ,十腰内Ⅰb式などと称される。分布範囲は第1段階とほぼ重なるものの,北海道道央部後志地方や山形・新潟県下でも本段階の土器に類似する資料が確認されている。青森市中平遺跡,田面木平(1)遺跡で数多くの資料がみられるほか,稲山(1)遺跡第130・173B・291・358号土坑,上尾駮(2)遺跡CJ-35号竪穴住居跡,八戸市丹後谷地(1)・(2)遺跡捨て場2などで良好な一括資料がみられる。深鉢・鉢・浅鉢・壺のほか蓋形土器や注口土器もみられる。深鉢の胴部文様帯は,第1段階と比べ上下の帯が狭くなり,多段配置の傾向が強かった渦巻状の入組文の配置も単調となるため,文様が横位に展開しているかのような印象をもつ。また,前段階の主要文様が沈線主体であったのに対し,この段階では磨消縄文手法や櫛歯状沈線によるものも少なくない。
第3段階の土器(同23~31)は,さらに新しい段階として位置づけられ(尾上町教育委員会,1980/葛西,2005/金子,1994),四ッ石式(青森山田高等学校考古学研究部,1987)とも称される。後期2期や3期第1・2段階の伝統を受継ぎながらも,北海道南西部の白坂3式(山岸,1983・88)や関東地方の堀之内2式の影響も見え始める。青森市四ッ石遺跡,五所川原市観音林遺跡,平川市太師森遺跡などでまとまった資料が出土している。深鉢や鉢・浅鉢・壺などがあり,深鉢は平坦口縁のものが多く,胴部にクランク文や波状入組文などを有し磨消縄文手法を用いるものが多い。
(4)後期4期(後期中葉「十腰内Ⅱ群」併行)(図4)
当該時期以降,関東地方から東北地方,北海道道央部にかけて地域差こそあるものの,器形や文様など共通性の高い土器が作られるようになり,広域的な土器分布圏が形成される。三沢市小田内沼(1)遺跡,八戸市丹後平(2)遺跡・田面木平(1)遺跡・新井田古館遺跡などで良好な資料が出土しているが,前時期と比べて遺跡数が減少するため資料の数も多くはない。標式遺跡である十腰内(2)遺跡では,関東地方の加曾利B1式にみられる平行線的な文様帯を構成するものをⅡ群a,東北地方の要素をもつ曲線的な文様を構成するものをⅡ群bとに分類し,両者に地域的影響の差異を認めている(今井・磯崎,1968)。これらの土器(図4)は,県内で一般に十腰内Ⅱ式として認識されているが,十腰内Ⅱ群とⅢ群との間に位置づけられた丹後平式(鈴木,1996)も含んでいる。器種は深鉢や鉢・浅鉢・壺のほか大型把手をもつ台付鉢が加わる。この大型把手をもつ台付鉢は,3単位の波状口縁部に装飾が施されるもので,平川市李平(2)遺跡や五戸町治郎左エ門長根跡から数多く出土している。後期3期第3段階で盛行した波状入組文やクランク文などの磨消文様を受継ぎ,かつ加曾利B1式の特徴である数段の平行沈線にC字やS字状の小沈刻を有するものが多い。
(5)後期5期(後期中葉「十腰内Ⅲ群」併行)(図5)
十腰内Ⅲ式とも呼ばれ,北海道の𩸽澗式や関東地方の加曾利B2式に併行する(図5)。十腰内(2)遺跡の標式資料のほか五所川原市神明町遺跡第5号住居跡,八戸市風張(1)遺跡第13・16・45号竪穴住居跡で良好な一括資料が出土している。後期4期にみられた大型装飾把手は小型化し,3単位の波状口縁も減少する。かわって5単位の大波状口縁の深鉢や鉢のほか,壺・長頸壺・注口土器が増加する。また,この頃から球胴や長胴の壺あるいは筒形の土器の下半部に孔(焼成前に一箇所穿孔)を有する単孔土器がみられるようになり,後期後葉まで続く。口縁部には刻目を有し,胴部に施される弧状や鍵状の沈線を組合せた大ぶりの磨消文様が特徴的で,同一原体により方向を変えて回転した羽状縄文が多い。
(6)後期6期(後期中葉「十腰内Ⅳ群」併行)(図6)
この時期の土器(図6)は,十腰内Ⅳ式として認識されており,北海道のエリモB式や関東地方の加曾利B3式と併行する。外ヶ浜町尻高(4)遺跡,八戸市丹後谷地(1)遺跡・丹後谷地(2)遺跡・風張(1)遺跡などで良好な土器が出土している。このうち尻高(4)遺跡第4号竪穴住居跡,風張(1)遺跡第29・35・42号竪穴住居跡に良好な一括資料がみられる。器種は後期5期の十腰内Ⅲ群とほぼ共通した構成となっており,口縁頂部の突起が小型化するなどの変化もみられる。口頸部や胴部の文様帯には,磨消縄文手法による弧線を上下に組合せた入組帯状文や木葉状帯状文が顕著となり,2種類の原体による羽状縄文が目立つ。貼瘤が施され始める時期であり,北海道ではこの時期に土器の内側から刺突した突瘤手法の土器がみられるようになる。
(7)後期7期(後期後葉「十腰内Ⅴ群」前後)(図7)
この時期については,少なくとも4段階に区分され,北海道の堂林式から三ツ谷式や東北地方中部の西ノ浜式から宮戸Ⅲa式,関東地方の曽谷式から安行1式に併行する。
第1段階の土器(図7-1~13)は,十腰内Ⅳ群に含むという考え方(岡田,1986/小林,2008)と,十腰内Ⅳ群から切り離した見解があり,後者では十腰内5a式(鈴木,1997)や馬場瀬段階(関根,2004)に相当する。八戸市馬場瀬(1)遺跡・風張(1)遺跡・丹後谷地(1)遺跡・丹後谷地(2)遺跡などで多くの資料が出土しており,馬場瀬(1)遺跡第3・13号竪穴住居跡,今別町二ッ石遺跡第2号竪穴住居跡で良好な一括資料がみられる。器種は後期6期とほぼ共通するが,注口土器の体部が球形を呈するようになる。この頃より装飾性に富んだ香炉形土器が目立つようになり晩期前葉まで盛行する。後期6期までみられた口縁部に刻目を有する土器は減少し,磨消縄文手法による入組帯状文が枝分かれするもの,角の丸い鍵状の入組帯状文に変化するものもある。また,土器の内側から刺突する突瘤手法は,北海道よりやや遅れてこの段階で出現する。
第2段階の土器(同14~22)は,十腰内5b式(鈴木,1997)や中屋敷段階(関根,2004)に相当するものであるが,十腰内Ⅳ群の新しい段階とする見解(小林,2008)もある。青森市中屋敷遺跡,風張(1)遺跡,むつ市水木沢(1)遺跡,新郷村獅子神遺跡などで出土しており,このうち中屋敷遺跡包含層Ⅲ層,風張(1)遺跡第5号竪穴住居跡で良好な一括資料が確認されている。波状口縁の頂部に突起がつき,谷部にも瘤状の突起をつけることが特徴的である。枝分かれした入組帯状文がより顕著となる一方,鍵状の入組帯状文が減少する。
第3段階の土器(同23~39)は,貼瘤手法がもっとも盛行する段階で,十腰内Ⅴ群Ⅰ・Ⅱ期(岡田,1986),風張式(鈴木,1997),滝端段階(関根,2004)に相当する。風張(1)遺跡第63・100号竪穴住居跡,階上町滝端遺跡第3・4・5号住居跡,むつ市水木沢(1)遺跡第2号竪穴住居跡や大湊近川遺跡第101・102・105・107号竪穴住居跡などで良好な一括資料が出土している。この時期になると,5単位の大波状口縁の深鉢がほとんどなくなるとともに,壺や注口土器の底部が丸くなるものが目立つようになる。入組帯状文の幅が細くなる傾向にあり,突瘤手法による土器も多くみられる。また,小さくなった瘤状の突起が口縁部をはじめ随所につくものが増える。このうち,北海道の土器の影響があるものは大湊近川式(鈴木,1997)とも呼ばれ,先の尖った瘤が貼りつけられている。
第4段階の土器(同40~42)は貼瘤手法から刺突手法に変化するようになり,大湊近川遺跡や風張(1)遺跡などで出土している。下北と津軽北部では,前段階から突瘤・刺突手法による土器が貼瘤手法よりも多くみられる傾向にある。また,刺突は爪形のものが増えてくる。
(8)後期8期(後期末葉「十腰内Ⅵ群」前後)(図8)
後期最終末の土器であり,瘤付土器の最終段階に位置づけられる(図8)。北海道の御殿山式,関東地方の安行2式に併行する。弘前市十腰内(2)遺跡の標式資料の一部や三戸町沖中遺跡第11号土坑の一括資料が該当する。岩手県軽米町駒板遺跡から良好な資料が出土していることから,駒板式(鈴木,1997)や駒板段階(関根,2004)として設定されている。深鉢や鉢は口縁が平坦や小波状を呈するものがみられ,底部は上げ底のほか台部を有するものも目立つ。また,注口土器は丸底や突起状の底部が特徴的で,各器種において次第に晩期の亀ヶ岡式の形態に近づいていく。貼瘤はほとんどみられなくなり,縦位の刻目をもつものが増えてくる。頸部の文様帯には,晩期初頭大洞B1式の指標の一つである三叉文が認められるが,これまでの流れをくんだ入組帯状文を崩すほど強調された三叉文ではない。
第2節 縄文晩期
東北地方の縄文晩期の土器は一般に亀ヶ岡式土器と呼ばれるが,この名称はつがる市亀ヶ岡遺跡に由来する。亀ヶ岡式土器は,岩手県大船渡市大洞貝塚の発掘調査資料を中心に,八戸市是川中居遺跡,秋田県北秋田市藤株遺跡の土器を参考として,大洞B式から大洞A'式まで6型式ないし9型式に細分されている(山内,1930・64)。山内自身,亀ヶ岡式土器に地域差が存在することを認識しており,陸前地方の晩期縄文土器を大洞式と呼ぶ一方で,陸奥には亀ヶ岡式の名称を使用している(山内,1937)。このように県内から出土する晩期縄文土器は,すべてが大洞式の範疇で括れるわけではなく,とりわけ地域性が強まる晩期初頭や晩期後半には大洞式とは呼びがたい土器も少なくない。
ここでは晩期を7時期にわけ,県内から出土する縄文土器の変遷を述べる。なお,放射性炭素年代測定(AMS法)結果からみて,亀ヶ岡式土器の開始は3,100calBP頃であり,終末は2,400calBP頃と考えられる。亀ヶ岡式土器の継続期間はおよそ700~900年間と見積もることができよう。
(1)晩期1a期(晩期初頭「大洞B1式」併行)(図9)
弘前市大森勝山遺跡,三戸町沖中遺跡,階上町滝端遺跡などで多くの土器が出土している。この時期の一括資料としては,むつ市大湊近川遺跡第206号竪穴住居跡埋土2層,野辺地町有戸鳥井平(7)遺跡第4号竪穴住居跡,沖中遺跡第17号土坑などから出土した土器があげられる。
後期後半に東北地方で盛行した瘤付土器の伝統を受継ぎ,体部がくびれる装飾深鉢が残る一方,装飾性に富む台付鉢や浅鉢が目立つようになる。高い山形の突起は減り,口縁部は小波状のものが多い。口縁部には連弧文・山形三叉文・魚眼状三叉文などが展開し,頸部や胴部上半には構成が大きく崩れ,入組部に配される円を中心にそれを取囲む三叉文が強調された入組帯状文が盛んに用いられる。壺は量的に少なく,注口土器は変異に富む。
(2)晩期1b期(晩期前葉「大洞B2式」併行)(図10)
平川市石郷(4)遺跡,八戸市八幡遺跡・是川中居遺跡,三戸町泉山遺跡をはじめ,県内各地の遺跡から数多くの資料が出土している。是川中居遺跡では平成11・12(1999・2000)年に調査されたD区捨て場1のⅣa層とC区捨て場2のD1~D3層に良好な一括資料がみられる。
体部がくびれる後期的な装飾深鉢が姿を消すとともに,装飾される土器の主体が深鉢からほかの器種に移る。それに伴い装飾性に富んだ小型の鉢・浅鉢・壺・注口土器が数多く作られるようになる。壺は多様性が増す一方,注口土器は定型化が進む。入組三叉文をはじめとする各種入組文が盛行し,曲線の末端に菱形を配置するものも多くみられる。
津軽・下北地方では,北海道渡島半島に分布する土器との共通性が高まり,北上川流域との共通性が高い南部地方の土器との違いが顕著になる。
(3)晩期2期(晩期前葉「大洞BC式」併行)(図11)
平内町槻の木遺跡や八幡遺跡,是川中居遺跡,泉山遺跡をはじめ,県内各地の遺跡から多くの土器が出土している。是川中居遺跡では平成14・15年に調査されたH区捨て場のⅠ・Ⅱ層から木製品・漆塗り製品とともに良好な一括資料が出土している。
1b期に引き続き,装飾性に富む小型の鉢・浅鉢・壺・注口土器が数多くみられる。口縁部を中心に羊歯状文が盛行する一方,鉢や壺の体部には磨消縄文手法により唐草文風の意匠を基調とした雲形文がみられる。この時期の雲形文は,もっぱら区画文と充塡文からなり,配置文が未発達なため,後続する時期に比べ比較的単純な構成をとる。なお,県内では製塩土器は本段階から晩期4期(大洞C2式併行)まで確認できる。
(4)晩期3期(晩期中葉「大洞C1式」併行)(図12)
青森市細野遺跡,板柳町土井(1)遺跡,三沢市野口貝塚,階上町寺下遺跡,三戸町杉沢遺跡などで良好な資料が出土している。
東北地方全域で土器の斉一性が高まる傾向にあり,精製土器の場合,地域差はあまり目立たなくなる。深鉢の粗製・半精製化が完成するとともに,煮炊きに使われる小型の台付鉢が増加する。装飾性に富む浅鉢や注口土器では,大型で精巧なものも作られるようになる。羊歯状文は上下に押しつぶされる形で直線化し,横に間延びした構成をとる。一方,雲形文は区画文・充塡文・配置文の組合せにより,さまざまな変異が生み出され,文様の主体を占める。
(5)晩期4期(晩期中葉「大洞C2式」併行)(図13)
外ヶ浜町宇鉄遺跡・今津(1)遺跡,十和田市明戸遺跡,是川中居遺跡長田沢地区などから良好な資料が出土している。このうち宇鉄遺跡の遺物包含層では,晩期3~5期の土器の移り変わりを層位的に追うことができる。
すべての器種において器形の変異が整理され,画一的な土器が多くなる。深鉢は砲弾形のものに加え,頸部のある甕形のものが多くみられる。古い段階の文様は雲形文が主であるが,磨消縄文からは半肉彫的手法が失われるため,全体に平板な印象を与える。文様そのものも硬直化・平行線化し,割付や配置に粗さが目立つ。口縁部ではA突起が著しく発達する。新しい段階の文様は,単純化し退化した雲形文や横長の楕円文,中央で鍵の手に入組む渦文,磨消縄文手法を用いた入組工字文,主として文様帯区画に用いられる眼鏡状浮文などが特徴的である。
この時期に再び津軽・下北地方では,北海道渡島半島に分布する土器との共通性が高まり,北上川流域との共通性が高い南部地方の土器との違いが顕著になる。
(6)晩期5期(晩期後葉「大洞A式」併行)(図14)
亀ヶ岡遺跡,宇鉄遺跡,むつ市二枚橋(2)遺跡などで多くの資料が出土している。また,青森市米山(2)遺跡では第1044号土坑から良好な一括資料が出土している。
津軽地方では,体部に縦方向の条痕文を有する粗製深鉢が目立つようになる。皿や注口土器が激減し,精製土器は浅鉢と壺にほぼ限られる。磨消縄文は減少し,平行沈線と隆線によってπ字形工字文・入組工字文・重畳する流水工字文・矢羽根状の沈線文などの文様が描かれる。時代が降るにつれ文様帯の幅は狭くなる傾向にあり,π字形工字文や間隔の狭い平行沈線に2個一対の粘土粒を付した工字文,単位文化したπ字形工字文(変形π字形工字文)が主体となる。
(7)晩期6期(晩期末葉「大洞A'式」併行)(図15)
青森市沢山(1)遺跡,弘前市牧野Ⅱ遺跡,南部町剣吉荒町遺跡,新郷村咽畑遺跡,佐井村八幡堂遺跡などでまとまった資料が出土している。
注口土器はほぼ完全に消滅し,皿形土器もほとんどみられない。台付浅鉢は大型化し,口縁の突起が発達する。台付浅鉢の台部は後続する砂沢式に比べ低く,裾が広がる。壺は口頸部が太く直立気味で,なで肩のものが多い。口縁部から装飾帯が失われ,体部上半に工字文の縦線を大きく三角形に引延ばしたような変形工字文やπ字形工字文が施される。なお,変形工字文には沈線によるものと隆線によるものとがある。 |