| 本文テキスト | 明暦2年(1656)、3代藩主津軽信義死去後に行われた、津軽黒石領の分知を取り扱った。幕府は、信義の弟津軽信英を、まだ10歳の幼年であった信義の世子平蔵(後の信政)の後見役に任命して藩政を指導させることにした。信英は、寛永19年(1642)6月16日(津軽家系譜)、幕府小姓組に召し出され、兄信義から1,000石の合力米を受け、慶安3年(1650)9月には西丸書院番となり、翌4年秋には駿府加番、明暦元年9月、再び西丸書院番となった。信英の身分は、幕府旗本であり、江戸を生活の本拠としていた。
『寛政重修諸家譜』第十二(続群書類従完成会 1965年)によれば、明暦2年2月、津軽信英は弘前藩から5,000石を分知された。その内訳は黒石領2,000石、平内領1,000石、上野国大館領(現群馬県新田郡尾島町など)2,000石であった。黒石領2,000石は、黒石1,000石と山形(現黒石市山形)1,000石という。平内領1,000石は、いわゆる外浜の一角で、現在の東津軽郡平内町一帯。上野国大館領2,000石は、初代藩主の津軽為信が徳川家康から拝領した上野国勢多郡の領地を全部拝領した。しかし、分知とはいえ内分であるから、信英の領地は、あくまでも本藩の弘前藩領の一部であったし、幕府が「奉公」として諸大名・幕臣に賦課する軍役も、おおむね本藩が従来通りに負担した(浪川健治「黒石藩領の性格と支配―宝永2年代表越訴を素材に―」『弘前大学國史研究』78号 1985年)。
弘前藩では、分知に先立ち信英へ分与を予定している地域の領内検地を実施し、検地帳を作成した。この検地帳は、同藩に残っている最も古い検地帳で、「明暦二年津軽十郎左衛門拝領山形黒石領外浜平内領検地帳」(黒石市蔵、青森県重宝)などと題し、22冊が現存している。黒石市教育委員会から1987年に『明暦の検地帳』と題して刊行されているので、津軽黒石領の全体把握は同書をご覧頂きたい。
さて明暦検地の施行範囲は、津軽地方でも津軽黒石領に予定された、現黒石市と東津軽郡平内町を中心とした地域に限定された。具体的な検地の内容は、次の通りである。田方は、上・中・下の3等の他に、「苗代」「稗田」の別が設けられた。ただし、黒石村などでは田の等級表示はされていない。畑方は各一筆ごとに作付品の種別が書き上げられ、大豆・大根・小豆・あい(藍)・麻・蕎麦・荏胡麻・なすび・たばこ・粟・稗・長命草(この植物については詳細は不明、薬草の一種か)が記録されている。「高」の1反あたりの石盛は、前記のように田方には上・中・下の区別はあるが、一律に1石3斗になっている。一方、畑方と屋敷地は「物成」で示され、畑方は栽培作物の種別にかかわらず一律3斗、屋敷地は1石3斗の石盛となっている。本節では、平内小湊村の各種検地帳(No.99~101)を掲げ、当該地域村落の状況を把握できるようにした。
なお明暦検地の目的は、前述のようにあくまでも本家である弘前津軽氏からの分知と、分家の家臣団を形成するための知行割なのであって、知行高と軍役の負担高を確定するのに眼目があった(『黒石市史』通史編Ⅰ 黒石市 1987年)。それを、1反1石3斗の石盛によって、機械的に算出しようとしたのだった(ただし、畑方は3斗、屋敷地は1石3斗を乗ずる)。第二章第二節で扱う弘前藩の貞享総検地の際にも、給人知行地の整理は「古給一石三斗」の割で実施されたといわれる。このことは、前期弘前藩の給人知行地の設定は、実際の米の生産量に換算された土地の生産力を把握した上で行われたのではなく、面積に一律1石3斗の石盛を乗じて行われたことを示していよう(同前)。このほか、信英分知に伴って、津軽黒石領に編入された地域の小知行衆の知行書上の史料も掲載した(No.102)。
なお寛文2年9月、信英は弘前城内において、後見役のまま死去した。遣領5,000石は、信英の長子の左京信敏が継いだ。しかし、このとき、弟の一学信純に黒石領飛内村(現黒石市飛内)など500石、上野国赤堀村(現群馬県新田郡新田町)など500石、計1,000石を分知し、黒石津軽氏も、本家4,000石・分家1,000石の2家に分れた。両者は幕府旗本として、信敏は小普請組に配され、書院番に列した(前掲『寛政重修諸家譜』)。元禄2年(1689)、1,000石を分知した津軽信純の養子伊織信俗が死んで家が絶えたため、知行1,000石は幕府に収公され天領となった。その際に、同領の内訳を書き上げたのが、「陸奥国津軽郡黒石領之内津軽伊織上知郷村高帳」(No.103)である。当史料は、村高を書き上げた単なる郷村帳ではなく、村高、新田高のみならず年貢高、小物成、野手役など各諸役までを詳細に記載しており、元禄初期における同領の経済・生産構造を知る上でも貴重である。
なお弘前藩は、元禄11年、幕府に願い出て領地を交換し、上野国勢多郡の1,500石余を幕府に返上して、北黒石の4カ村1,120石余と、陸奥国伊達郡秋山村(現福島県伊達郡川俣町)370石余を取得した。ここに津軽領内から天領は消滅した。 (長谷川成一) |